芸術論、批評と解釈、小説とは

もちろん作曲家が自作を演奏した歴史的貴重性というのは、何ものにも代えがたいわけだが、小説の場合の「著者、自作を語る」というのと同じで、それなりに肩透かしをくわされる部分もある。テキストと解釈というのは、やはり別のレベルで成立するものなのだということが、この演奏を聞いていると実感できる。
村上春樹、意味がなければスイングはない、2005年11月、文藝春秋、228頁より

苦悩を抱えていたほうが仕事ができるなんてやつ、いるものか。あまりにも文学的な発想だよ。そんなの。もう書けない、と思ったね。
ジェームズ・ボールドウィン、(The Paris Review、第91号、1984年)
、パリ・レビュー・インタビューI、2015、岩波書店、青山南編訳、260頁より

ー 登場人物たちは身近な存在ですか?身近な存在にかんじます?
小説を書き終えるっていうのは、汽車はこの先には行きません、降りてくださいってことなのよ。(中略)本を書き終えるといつもかんじるのは、自分にはまだ見えていないなにかがあるってこと。でも、そのことに気づいたときはもう遅いのね、終わっていてもう手が出せないんだから。
ジェームズ・ボールドウィン、同上、262頁より

作家は、自分がみたことを、あらゆるリスクを引きうけて記録しなくちゃいけないということさ。(中略)かれが見た現実はだれにもコントロールできない。(中略)ガートルードは「それ、気に入らない」と言ったんだ。すると、ピカソはこう言った、「いずれ、気に入るよ」
ジェームズ・ボールドウィン、同上、280頁より
補足:パブロ・ピカソがガートルード・スタインの肖像画を描いていたときに彼女に言ったと言われている言葉。その通りになった(気に入った)という話。

ー 登場人物があなたから離れていく、あなたのコントロールから逃れていくのをかんじたことはありませんか?
かれらは幽霊(ゴースト)みたいなものよ。考えているのは自分のことだけで、自分以外のことには関心がない。だから、かれらにこっちの本を書かせるわけにはいかないの。(中略)だから、言わなくちゃ、お黙り、うるさい、これはこっちの仕事よ、と。
トニ・モリスン、(The Paris Review、第128号、1993年)
、パリ・レビュー・インタビューI、2015、岩波書店、青山南編訳、306頁より


よく、作曲家が自分の作品を演奏すれば、一番きれいに、一番おもしろくひくだろうという人があるけれども、どうも概してそうではないようだ(経験もその反証を与えている)。ことにいま作曲したばかりの新しい作品で作曲家自身もまだ客観的に支配していないものは特にそうだ。
シューマン、音楽と音楽家、吉田秀和訳、1958、岩波文庫(青502-1)、87頁より

天才作家といえども、今日のいま、一切のことをしなければならない。彼は、ホメロスよりもはるか先まで進んでいるわけではないのだ。
マルセル・プルースト、サント=ブーヴに反論する、出口裕弘・吉川一義訳、底本=筑摩書房刊『プルースト全集14』、1991年、新潮四月臨時増刊20世紀の世界文学、新潮社、46頁より

つまり一冊の書物は、私たちがふだんの習慣、交際さまざまな癖などに露呈させているのとは、はっきり違ったもうひとつの自我の所産なのだ。このもうひとつの自我を理解しようと希うのなら、私たちはわが身の深部にまで降りて、自分のなかにこの自我を再創造してみるほか、成果を得るすべがない。
マルセル・プルースト、同上、47頁より

次の章から語られるグリソーストモのマルセーラへの執拗な恋情や、ドン・フェルナンドのドロテーアやルシンダへの好色などは、生きた人間の真実を描かねばならかったゆえに、それぞれの生の事情によって解決が図られている(グリソーストモは自殺、ドン・フェルナンドは悔悛)。一方的な断罪は人間性の真実を映す鏡たる小説においては避けねばならず、そこでは、叙述における〈配分の公平さ〉(前篇三七章)を期す必要があったのである(『セルバンテスの芸術』五章、「『ドン・キホーテ』における〈本当らしさについて〉」を参照)。
セルバンテス全集(2)ドン・キホーテ 前篇、岡村一訳、2017年2月、水声社、注釈、714頁より

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