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開高健『玉、砕ける』について

 黴が身にまとわり付いたようなだるさ(倦怠感)、取材先での疲れや無力感なのか憂鬱から抜けられない作家。知り合いの張に会うため香港経由で帰国することにし、張のすすめで澡堂(垢すりや按摩もやってくれる風呂屋)で擦り取られた垢の玉を受け取る。日本への出発日に老舎が死んだことを教えられる。  体にまとわり付いた黴の塊ではある玉を大切にくるんで持っていたが、その玉は乾いて飛行機の座席に着いた時に砕ける。文革(文化大革命)後である。中国の知識人らは政治的立場、党派の選択を迫られた時、片方を選べば生き延び、逆を選べば粛清され命がない。老舎に何があったのだろうか、張は香港で生き延びているが心境は複雑である。  タイトルは玉砕と読めるが、取材旅行から脱出してもすっきりせず、人が運命から逃れられず砕けることを痛感したのではないだろうか。 初出=1978年(昭和53年)3月、文藝春秋 所収=新潮社、『歩く影たち』

大岡昇平『花影』について

 主人公葉子のモデル坂本睦子 は大岡昇平の愛人であったが、その自殺を解き明かすことや、高島のモデル青山二郎を責める目的で書かれた小説でもない。また、坂本睦子と仲のあった菊池寛、中原中也、坂口安吾、河上徹太郎、小林秀雄、大岡昇平ら文人らの私小説でもない。江藤淳は中原中也の『臨終』の本歌取りと論評した。葉子の吉野への旅は願い叶わなかったが、その想念は西行のあまりにも有名な「願はくは花の下にて春死なん」を本歌取りした美しい文章で挿入されている。  しかし、葉子にとって切実に心残りではなく、西行の本歌取りの文章は妙に綺麗に浮いて感じられる。花影は人の世の生と死の行く末を描いた小説であるが、中也の詩の通り、鈍色(にびいろ)の空の下で神もなくしるべもなく窓近く婦(をみな)の逝きぬ、町々はさやぎてありぬ、子等の声もつれてありぬ、この歌が葉子が幼少に白っ子と呼ばれたことと重なって、神や仏が存在しないこの一遍の小説全体の歌として聞こえてくる作品である。 葉子のモデル 坂本睦子 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%9D%A6%E5%AD%90 高島のモデル 青山二郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E4%BA%8C%E9%83%8E 松崎のモデル 大岡昇平自身である。 江藤淳、現代文学体系59「大岡昇平集」解説、筑摩書房、1966、(江藤淳著作集 続2、昭和48年、講談社より)

宗教思想

二宮尊徳 神、儒、仏を合わせた現実主義的思想。 対象を凝視しながら対象にとらわれない思考。 夫れ人道は譬えば、水車の如し。其の形半分は水流に順(したが)ひ、半分は水流に逆ふて輪廻す、丸に水中に入れば廻らずして流るべし。又水を離るれば廻ることあるべからず。 天理に順ひて種を薪き、天理に逆ふて草を取り、欲に随(したがひ)て家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり。 福住正兄、『二宮翁夜話』、江戸末期、福住正兄は二宮尊徳の門人 セルバンテス 天国にいきてえからとか、地獄に落ちるのが怖いからとかでなく、ただ神様が神様だからちゅうことで。まあ、できればおら、愛して仕えたら、なにかお恵み頂戴してえと思うけんど。 ミゲル・デ・セルバンテス、ドン・キホーテ、前篇、第31章、1605 セルバンテス全集(2)ドン・キホーテ 前篇、岡村一訳、2017年2月、水声社、400頁より

栄誉とは、名誉と褒章

勝者にはただ栄誉だけが与えられるのだろうか。栄誉には葡萄酒、羊、金銀の報奨が伴うのは最もであろうか。 どんなに槍が投げられても、どれだけ剣捌きが見事でも、そいつを抵当(かた)に居酒屋で酒の一杯も飲めるわけでねえ。(ドン・キホーテ、第20章、202頁) 愛の最大の破壊者は空腹であり、抜け出せない貧乏暮らしだ。(ドン・キホーテ、第22章、222頁)

人間の善意とは

持っている食い物をわけてくれろと頼むかと思えば力ずくでとりあげなさることもあるだ。ちゅうのも、おかしくなったときは、進んで食い物差し出されてもおとなしく受けとらねえで、わざわざ殴ってとっちまうけんど、正気のときには頭下げて礼儀正しく丁寧に頼んで、受け取ると何度も例を言って涙まで流しなさるだ。  実を言えば、旦那方(と、山羊飼いは続けた)きのう、おらとほかの山羊飼え四人のあいだで、二人使っているやつであとの二人は友達だけんど、話がまとまっただよ、なにがなんでも探し出すべえと。見つけ出したら、首に縄つけてでもここから八レグアばかりのところにあるアルモドーバルの町へ連れていって、そこでおのおつむの病気、治せるものなら治してあげてえだ。 ミゲル・デ・セルバンテス、ドン・キホーテ、前篇、第23章、1605 セルバンテス全集(2)ドン・キホーテ 前篇、岡村一訳、2017年2月、水声社、280頁より

芸術論、批評と解釈、小説とは

もちろん作曲家が自作を演奏した歴史的貴重性というのは、何ものにも代えがたいわけだが、小説の場合の 「著者、自作を語る」というのと同じで、それなりに肩透かしをくわされる部分もある。テキストと解釈というのは、やはり別のレベルで成立する ものなのだということが、この演奏を聞いていると実感できる。 村上春樹、意味がなければスイングはない、2005年11月、文藝春秋、228頁より 苦悩を抱えていたほうが仕事ができるなんてやつ、いるものか。あまりにも文学的な発想だよ。そんなの。もう書けない、と思ったね。 ジェームズ・ボールドウィン、(The Paris Review、第91号、1984年) 、パリ・レビュー・インタビューI、2015、岩波書店、青山南編訳、260頁より ー 登場人物たちは身近な存在ですか?身近な存在にかんじます? 小説を書き終えるっていうのは、汽車はこの先には行きません、降りてくださいってこと なのよ。(中略)本を書き終えるといつもかんじるのは、 自分にはまだ見えていないなにかがある ってこと。でも、そのことに気づいたときはもう遅いのね、終わっていてもう手が出せないんだから。 ジェームズ・ボールドウィン、同上、262頁より 作家は、自分がみたことを、あらゆるリスクを引きうけて記録しなくちゃいけないということさ。(中略)かれが見た現実はだれにもコントロールできない。(中略)ガートルードは「それ、気に入らない」と言ったんだ。すると、ピカソはこう言った、「いずれ、気に入るよ」 ジェームズ・ボールドウィン、同上、280頁より 補足:パブロ・ピカソがガートルード・スタインの肖像画を描いていたときに彼女に言ったと言われている言葉。その通りになった(気に入った)という話。 ー 登場人物があなたから離れていく、あなたのコントロールから逃れていくのをかんじたことはありませんか? かれらは幽霊(ゴースト)みたいなものよ。考えているのは自分のことだけで、自分以外のことには関心がない。だから、 かれらにこっちの本を書かせるわけにはいかないの。 (中略)だから、言わなくちゃ、 お黙り、うるさい、これはこっちの仕事よ、 と。 トニ・モリスン、(The Paris Review、第128号、1993年) 、パリ・レビュー・インタビューI、20

短歌、俳句選

露地露地を出る足三月十日朝 川崎展宏、句集『義仲』、昭和五十三年 南無八万三千三月火の十日 川崎展宏、句集『秋』、平成九年 ※昭和20年3月9日夜から翌10日未明にかけての東京大空襲 煖炉ぬくし何を言ひだすかもしれぬ 桂信子、句集「女身」、昭和三十一年(1956)、? おほた子に髪なぶらるゝ暑サ哉 斯波園女、桃隣編「陸奥鵆」、元禄十年(1697) 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子、『万葉集』巻第八「春雑歌」