有神論と無神論の合一
有神論と無神論の合一
update:2007-02-10(sat)要約
- 有神論も無神論も同じだと考えこれを合一したい。
- 「神がいる」という考えと「神がいない」という考えは互いに受け容れ難くみえるが同じだと考える。なぜなら結局同じところに行き着くからである。
- 神の問題をめぐるこの問題のジレンマ(相反)が人間に反映されているのではないか。
エゴ(私)
この問題で悩むのは「私を消す」ことを行うのは難しいからである。 なぜなら、私が崩れてしまうから。私はあり、私はない(私はいるが、私はいない)
禅問答のようだが「私は在る」と「私を消す」を両立させなくてはならない。 陰陽合一、陰陽魚太極図のように。有神論と無神論
愛について語る思想家が有神論と無神論をめぐってはしばしば感情的な批判を展開することが不思議であり平和でない。一切を捨てよという手段
修行の過程で一切を捨てることがある。なぜ捨てる必要があるのか。 それは物を持つとそれに「囚われる」からであって、私の存在に囚われ「私を消せない」という問題と同じです。 それゆえ、修行の段階で「捨てる」「一切の欲望を受け容れるな」という手段があり、 受け容れることができるならば修行は不要となる。 修行の段階で暴力に向かったりするのは道を踏み外したのである。「私はいない」ということを考える必要があるか
深く考えて地球を一周しないと分からないことは、 何もしなくてもこの地点にただいるだけで分かることと同じです。 ただしこの地点にいるだけで気がつくとは限りません。修行しないと体験できないかも知れない。考えの進め方、アプローチ方法
真実とは何か?という問題意識のある本を読めば昔から哲人、宗教家、思想家がいろいろ書物に残していることが分かる。 青年期にこのような問題を手紙や日記にでも書いていた方はいらっしゃるのはないだろうか。 ただ読めば理解できるが、経験がなければ本当の経験(体験)にならない。 孤独に思考を重ね昔の哲人と同じ山に登る人もいる。結局は自分で考えないと境地には至れないのかも知れない。他人との合一、神との合一
過去の普通の人々は他人を愛し、他人と合一し、その歴史の上に私たちが生まれているので、 境地に至らなくても実は実践できてしまう。無神論はここに注目するように思います。 神がいても、いなくても同じだと。有神論だと他人との合一は最終的には神との合一になるので、 神がいなければ何とも合一できないことになるのだと思われる。西遊記の話
三蔵法師が天竺を目指して旅をしたが、旅の終わりまで来ても天竺はない。 ここで、これまで歩いてきた道が天竺であったことに気がついた。 天竺はいつも傍にあるが、たいてい気がつかず実感もできない。 そこで修行をして見えるようにするのが小乗仏教のやり方である。南無阿弥陀仏
親鸞は生半可な僧よりも、学のない民百姓の方が愛を知り愛ある人生を営んでいると説いた。 ごちゃごちゃ考えることは遠回りであり、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでよいと教えた。 (本当な何も唱えなくてもよい。)有神論も無神論も同じである
有神論も無神論も同じである。確かに神がいるという考えと、神がいないという考えは正反対の言い方になるが、 結局同じところに行き着くから同じである。有神論のモデル(図式)
人間は全知全能の父なる神の子である。その意味で神に愛され、皆兄弟であり、神のコピー(写し)である。父なる神 │ ┌─┼─┐ 子 子 子 (父なる神の子供たち=人間)※人間以外は霊的にレベルが異なると考える。そもそも階層モデルだからかも知れない。
無神論のモデル(図式)
無神論者からの疑問はなぜわざわざ「神」を想定してしまうのか、回りくどいではないかというところだと思われる。 根源的な生命のマグマがあってすべてがそこから派生して生まれ消える、ただそれだと考えます。個々の生 │ 個々の生─<生命の根源父なる神>─個々の生 │ 個々の生(=人間)※人間以外は生命としての出現が異なるだけだが、それゆえ人間であるかそうでないかは偶然に過ぎないとする考えと、 この差に何か因果や根拠があるとする考えがある。
有神論の立場
「自分は存在する」ゆえに「神も存在する」と考えます。 自分は存在するが、生んだ神は存在しないという考えは受け容れ難いから。合一
ただ単に合一であると考えるが、有神論と無神論の合一は神様と存在しない幽霊とのセックス(合一)になってしまう。 そういう合一もできると思うが、互いに受け容れ難いのが現状です。このジレンマは人間にも反映され、 私と他人の壁が消せないことになっている、この相似形を感じる。慈悲の心
他人を許す、無条件に許す、慈悲の心を持つということ。実践はとても難しいができる人には何でもないこと。 神様は無条件に許します。なぜなら皆、父なる神の子なので。 神様がなくても無条件に許します。なぜなら許さない理由は何もないので。2007-02-10(sat)掲載
2008-06-23(mon)表記改定
索引
山本直幸 (Naoyuki Yamamoto) since:1998,2,18(wed)
コメント
コメントを投稿